ピーマンの肉詰めに関する一考察
はじめに
どうも、ミヤです。
みなさん、ピーマンの肉詰めは好きですか?私は大好きです。今日はこの料理のネーミングについてもう一度考え直してみたいと思います。
今日の記事は本当に得るものがありません。それでもいいよという方は暇つぶしと割り切った上、覚悟してご覧ください。
序章〜屁理屈の始まり〜
昨夜、ピーマンの肉詰めを食べているとピーマンと肉が分離した。
妻はピーマンを「抜け殻」と表現した。
ピーマンが抜け殻であるとすれば主体は肉であるはずだ。とすればネーミングは「肉のピーマン纏い」等が適切である。なるほど、では主体はピーマンか。こう思った読者諸君には申し訳ないのだが私は一歩踏みとどまりたい。あくまでも肉を内包したピーマンであるという意味合いでのネーミングであれば、ピーマンの肉詰めよりも、肉詰まりピーマンや、肉入りピーマンが適切ではないだろうか。ここで視点を変えてみる。肉「詰め」という動作が料理の名称となっていると捉えるのであれば動作の主体が誰なのかを明らかにすることでこの問題の解決が期待できるのではないだろうか。
説①主体をシェフと捉える
最もわかりやすい解釈である。と、同時に自らが主体でありながらピーマンを「抜け殻」と表現することで主役を肉に譲った妻には脱帽である。しかしこの解釈では1つの問題が生じる。そう、助詞だ。主体がシェフであるなら「ピーマン『の』肉詰め」とするのはいささか不自然な表現である。「ピーマン『に』肉詰め」とすべきだ。
そこで、新たな説が浮上する。
説②ピーマンを主体と捉える
ピーマンの「肉詰め」というニュアンスだ。キッズたちに嫌われがちなピーマンが、何とか食べてもらおうと自らに挽肉を詰め込んでいく様子を想像すると、何とも健気で可愛らしい。しかし少々ファンタジーが過ぎる。残念ながら現実では起こり得ない可能性が極めて高い。
今回の思考で、私は明確な解釈に辿り着くことは出来なかったため、コメント等でみなさんの解釈を教えて欲しい。またこの崇高な問いを私と共に解き明かす道を選ぶ哲学者諸君は引用等での拡散もお願いしたい。私は当面の間、説①寄りの立場から「ピーマンに肉詰め」と呼ぶことにしよう。料理として名前がダサいというのであれば「ピーマン『への』肉詰め」とするのはどうか。長編映画シリーズのサブタイトルみたいで格好よろしい。そうだ、それがいい。昨日食べたピーマンへの肉詰め、美味しかったです。
ではでは、またまた。
